新選組のはじまり

幕末日本の象徴的な存在として、今もなお語り継がれる新選組。
もともとは、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で募集された浪士たちでした。
PEACE MAKER 鐵

PEACE MAKER 鐵

2018.6.2より劇場アニメ前篇「想道」公開
文久3年(1863年)、江戸から京都へやって来た近藤ら一行は、京都守護職・松平容保から不逞浪士の取り締まりや市中警備を任され、新選組の前身にあたる壬生浪士組を名乗っていました。

同年8月、八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価された壬生浪士組は、新たな隊名「新選組」を拝命。
ここに私たちの良く知る新選組が誕生したのです!!
※隊名は武家伝奏から賜ったという説と、松平容保から賜ったという2つの説があります。

八木邸

新選組の最初の屯所である八木邸。
八木邸を語る上で最も重要なのは、近藤を頂点とする試衛館派が、芹沢鴨、平山五郎ら水戸派を暗殺し、近藤を局長とする形態に整備したということです。
サブカル部 編集部撮影 (323)

via サブカル部 編集部撮影
八木邸の奥座敷には芹沢暗殺の際につけられた刀傷が今でも残っていて、入場すれば実際に間近で見ることができます。

旧前川邸

池田屋事件の端緒となった古高俊太郎への拷問が前川邸の蔵で行われたり、山南敬助が恋人・明里と格子戸越しに最期の別れを交わした後、切腹したりと、旧前川邸でも数々の事件が起こりました。
サブカル部 編集部撮影 (329)

via サブカル部 編集部撮影
現在は個人の所有となっているため内部は非公開ですが、毎年3月には山南忌が開催され、山南が切腹した部屋も公開されます。
また、土日祝日(AM10:00~PM5:00)のみ、当時隊士たちが行き来し、雨の日には剣術の練習にも使われていたという土間にて、旧前川邸オリジナルグッズや新選組に関するグッズが販売されています。

池田屋

新選組の活躍の中でも、最も有名な池田屋騒動。
新選組が旅館池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を襲撃した事件で、京都御所の焼き討ち計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名を、天下に轟かすことになりました。
サブカル部 編集部撮影 (224)

via サブカル部 編集部撮影
そんな池田屋の跡地は、現在『旅籠茶屋 池田屋 はなの舞』になっています。
サブカル部 編集部撮影 (222)

via サブカル部 編集部撮影
お店の入り口に池田屋騒動に関する説明書きや史跡を示す石碑があったり、店内に時代劇の池田屋騒動シーンではお馴染みの大階段や、当時の帳場の様子が復元されていたり、新選組ファンには嬉しいアミューズメント的要素も盛りだくさんです◎
メニューも、コースに新選組隊士の名前がついていたり、隊士をイメージしたカクテルがあったりと、ファン心をくすぐる内容になっています。
薄桜鬼やPEACEMAKER鐵など、新選組をモチーフにしたアニメとコラボをしていることも多いので、コラボメニューのある期間を狙って訪れてみるのもいいかもしれません。

三条大橋/三条河原

池田屋のすぐそば、鴨川にかかる三条大橋。
昨今は、明石国行を求めて橋が抜けるほど出陣したという審神者様も多いのではないでしょうか??

そんな三条大橋の擬宝珠には、池田屋事件の時に新選組隊士が付けたものと伝わる刀傷が残っています。
サブカル部 編集部撮影 (238)

via サブカル部 編集部撮影
三条大橋西側、弥次喜多像のある方の袂から二つ目の南北擬宝珠です。

また、三条河原は処刑された局長、近藤勇の首が晒された場所でもあります。

蛤御門(はまぐりごもん)

蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置する門で、元治元年(1864年)、長州藩が京都に出兵し、会津・薩摩などの藩兵と戦った禁門の変が起こった場所です。
蛤御門が禁門の変最大の激戦地になったことから、蛤御門の変とも呼ばれており、門の梁には今も、当時の激戦を伺わせる弾痕が残っています。

西本願寺

慶応元年(1865年)、伊東甲子太郎らの一派が入隊した新選組は200名を超す集団へと成長し、手狭になった壬生の屯所から西本願寺へ本拠を移転することとなりました。
サブカル部 編集部撮影 (485)

via サブカル部 編集部撮影
屯所として使用されていたのは、太鼓楼と北集会所ですが、北集会所は姫路の亀山本徳寺に移築されたため、西本願寺に残っている屯所跡は太鼓楼のみです。

油小路七条下ル/本光寺

新選組最後の内部抗争にあたる油小路事件は、思想の違いなどから御陵衛士として袂を分かっていた伊東甲子太郎、藤堂平助らが粛清された事件です。
近藤は、資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招き酒宴を張り、帰路で伊東を暗殺しました。
サブカル部 編集部撮影 (483)

via サブカル部 編集部撮影
その後、伊藤の遺体を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せ、藤堂平助を含む3名を討ち取りました。一説によると、近藤たちは藤堂だけは逃そうとしましたが、事情を知らない隊士に斬られてしまったそうです。
油小路七条下ルにある本光寺の傍らに殉難の碑が残されています。

その後の新選組は・・・

慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜が大政奉還を行いました。
新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するも、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。
方針の違いから永倉新八、原田左之助らが離隊し、新政府軍に捕われた近藤勇は処刑。沖田総司も、持病だった肺結核により江戸にて死去しました。
会津では斎藤一が離隊し、蝦夷へ向かった土方歳三もついに銃撃に倒れます。

こうして新選組はついに新政府軍に降伏することになるのです…

本当は全部をこと細かくご紹介したいところですが、いつの間にやら京都をはなれてしまいましたので、続きは次回の講釈で☆

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